社会にとっての恋愛の役割について考える

自分はオタクじゃないけれど、これだけは言わせて。
友達に「もっと女の子にがっついていかなきゃだめだよ」と言われてしまいました。
それってすなわち性欲に素直に、本能のままに生きろってことですが、
客観的、社会的に見たら、エッチな心は少なからず“好ましくないこと”扱いです。
エロ本は蔑まれ、風俗関係の人は穢れている人のように扱われます。
また、下心丸出しの人は社会によって叩かれる。
しかし、実際にはエッチな心巨大なパワーの源となって、社会に大きな影響を与えているのも事実です。
パソコンがエロ文化を媒介として普及してきたように、時代の先端をリードするのは常にエロです。
しかし、私は友達に言われたとおり、女の子にがっつくのは理性ある人間としてどこか納得がいきません。
理性というリミッターを外したら、きっと社会では生きていけないでしょう。
かと言って今のままのくすぶっている状態のままで良いはずがない。
では、私はエッチな心とどう付き合って行けば良いのか。どこまで下心丸出しで生きても許されるのか。
そのガイドラインは未だ定まりません。
しかし、下心、すなわちエッチをしたいと思う欲求を満たす行動、を代替する概念があったとしたら。
私は恋愛がそれに当たるのではないかと思います。
“あの女の子とエッチをするためにひたすら努力する”では、やはり社会的には面目が立ちませんが、
“あの女の子に振り向いてほしい”だと、人間として好ましい活動のように思えます。
しかし、ここで注意したいのは、恋愛感情とはまず下心ありきで
それを正当化するために後付けした理由としては成立しない
ということです。
総じて私が言いたいことは、下心という力を使わずとも、恋愛をすることによって、
理性に偽ることなく、自己内一致のままで、
より自分を価値あるものへと成長させることができるのではないだろうか、ということです。
だから、ちょっとドキっと思った女の子を見つけたら、これは恋かどうかすぐに判定するのではなくて、
もしかしたら恋かもしれない、この気持ちを大事にしていけばやがて大きな好きという気持ちになるかもしれない
と考えて、そのドキドキを大事に扱うのが良いのではないでしょうか。
いつも恋愛をしている状態というのが時が動いているように感じるときであり、
また、恋愛が人生を豊かにしてくれるとも思うのです。