新しいものを受け入れる恐怖についてあれこれ

新しいものを前にすると、尻ごみしてしまうことがある。
読んだことの無いマンガを読もうとしてみたり、見たことの無いアニメを見ようとしてみたり。
新しいゲームをインストールしようとしたり、・・・まともな人のラインだと、ギターを始めてみようとしたり。
それは、まわりの環境が変わる場合も同じなものように思う。
バイトを変えるのでも(この場合のかえるってどの漢字?)、初対面の人に話しかけようとするのだってそうだと思う。


そういった新しいものには全て、前提、とも言うべき、最初に理解しなければならないルールがある。
アニメやゲームだったら、世界観や、操作方法であったり、
人間関係であったら、その人がどんな人なのかを知る必要がある。
そういった前提を知った上で、新しいものを楽しむことができる。


しかし、そういった前提を理解するのには、ある程度の苦痛が伴うように思う。
それが何故なのかはよくわからないし、これから述べることが答えになっているのかは疑問ではあるけれども、
今まで築いてきた自分の世界が壊されること自体が、苦痛を伴うことだからだと思う。
昔読んだ本に、常識を壊されることの恐怖は死の恐怖によるものだ、とかいう話があったが、
そういったことと関係があるように思う。


例えば、自分の目で見渡せる範囲が自分の世界であって、その外と中には、ある種の城壁のような境界線がある。
新しいものを受け入れるということは、その城壁の一部を壊して、少し外に拡張するということである。
そして、それが必ずしも良くなるとは限らない。
今までとは違う風が吹き、今まで出来ていたことができなくなったり、今までの知識が通用しなくなる。
自分の世界の中心にある、もっともデリケートな、傷つきやすい部分(お城とでも言うべきかな)に、その影響が来る。


新しいものを受け入れることで、今までの平穏無事だった世界が壊されてしまうかもしれない、
そんな恐怖に怯えているから、新しいものを前にすると尻込みするのかもしれない。


でも、そんなのに怯えて小さくなっているなんて、もったいなさすぎるわけで、いろいろ考えてみたりして。
僕の結論は、・・・実はまだ出ていない。
ひとつの仮説としては、人間はもとから、その中心にあるもっとも大切な部分を残して、
どんどん変化していく存在なのだ、と考えること。
そういった考えは、物を持たない主義とも通じるものがあるけれど、
でもそれで恐怖が消えたかと思えば、そんなことはないわけで。
まーもう気分も悪くなってきたし、このへんにしておこうと思います。